
日本を含む先進国の消費市場では、必需的消費から選択的消費へ、あるいは機能から感性へ、といった流れが確実に進行してきている。その潮流のなかで、近年とくに注目を集めているのが「感動」というキーワードだ。ここでは、そうした状況の背景と、それを前提とした企業戦略の在り方と消費者の行動様式の変化について考えてみたい。
本の消費市場に「感動」というファクターが浮上してきた展開は、日本経済全体の変化と密接に関係している。戦後の復興期から高度成長期を経て、人々の暮らしが豊かになっていくにつれて、消費者のニーズは、必要最低限の「基礎」の領域から、より快適な暮らし、便利な暮らしを求める「機能」の領域、さらには、楽しさや安らぎ、自己実現といった「心」の領域へと高度化してきた。その「心」の領域のなかでも、長引く不況下にあった1990年代後半には、先行きへの不安感や閉塞感を映して「癒し」が大きなキーワードとなったが、経済が明確に上向きはじめたころから、「感動」が新たな主役として浮上してきた。
改めて振り返ってみると、アテネ・オリンピックでの日本選手の大活躍で日本中が盛り上がり、「セカチュウ(世界の中心で愛を叫ぶ)」や「冬ソナ(冬のソナタ)」がブームになった2004年あたりが転機だったと言えそうだ。この年の一連のブームで、現代の日本の消費者が、いかに感動を求めているかが浮き彫りになったが、その後も、スポーツのイベントや映画、ドラマ、音楽、ゲーム、旅行など、感動を生み出す商品やサービス、情報の市場は活況が続き、現在の日本の消費市場において最もホットな領域となっている。
そうした感動消費の状況を統計データから定量的に見てみよう。右の図は、2001年から06年までの個人消費の増減率を分野ごとに見たものである(GDPベースの国内最終家計消費支出の内訳。いずれの項目も名目ベースと価格変動分を除いた実質ベースの両方を表示しており、その差は価格の変化分を示している)。これらのうち、市場規模31兆円で個人消費全体の約1割を占める「娯楽・レジャー・文化」の分野は、全般に「感動」と密接な関係があると想定され、ここが感動消費市場の中核と位置付けられる。この分野は、価格低下のために名目ベースでは微増にとどまっているが、実質ベースでは5年間で4割近い大幅な伸びを記録しており、感動消費の盛り上がりを示す証左と言えるだろう。
市場規模11兆円の「家具・家庭用機器・家事サービス」の分野も、価格を低下させながら実質では増加する形となっているが、その変動の主因となっている薄型大画面テレビやDVDレコーダー、デジタルカメラなどのデジタル家電も、迫力のある画面で見ることで感動をより大きなものにしようとか、記録に残して何度も楽しもうといった、感動に対する欲求の高まりが背景となっている。また、基本的なニーズが充足し全体としては減少傾向になっている49兆円の「食品・飲料・たばこ」の分野でも、単に美味しいとか栄養があるというだけでなく、「めったに食べられない珍しいもの」とか、共感できる著名人が薦めている商品や、生産者の思いが伝わる商品のように、何らかの物語性を持った商品が市場を伸ばしている。こうした傾向は、「衣料品」や「外食・宿泊」などにもあてはまる。
こう見てくると、感動消費の市場は、趣味や娯楽の分野はもちろん、生活の基本的な分野まで、きわめて広範囲に及んでいるといえるだろう。言い換えれば、消費市場の一部が感動消費の領域であるというよりも、総額約282兆円の消費市場全体が「感動消費化」してきているということだ。
感動消費化の潮流は、産業構造や企業戦略にも大きな影響を及ぼしている。市場の中核である映画や音楽、ゲーム、イベント、旅行など娯楽関連の産業は、感動消費の盛り上がりを追風にして、より大きな感動を提供しようと競い合いながら、市場を拡大してきている。ただ、感動をはじめとする消費者の「心」の領域のニーズは、基礎領域はもちろん機能領域に比べてもはるかに不安定で、企業にとっては掘り起こすことの難しいニーズである。「心」の領域で新たな市場を開拓するには、ファッション関連でも食品でも、あるいは音楽や映像、イベントでも、実際にさまざまな商品やサービス、情報を提示して、消費者の反応を探っていく試行錯誤的なアプローチに頼らざるを得ない。追風のなかであっても、これはこれで厳しい環境と言えるだろう。
また、より日常的な消費活動に対応する消費財メーカーや小売業、サービス業においても、感動消費化への対応が重要な課題となっている。たとえば、お菓子や飲料などの娯楽的な要素の強い食品や雑貨などを中心に、「こんなの見たことない」とか「出会えてラッキー」といった、ささやかな感動が購入を促すカギになるケースが増えている。競争の激化が著しいスーパーやコンビニエンスストア、ドラッグストアなどの業態では、そうした「プチ感動」をどれだけ提供できるかが競争力の重要な要素になってきている。
そうした状況を受けて、小売業やサービス業では、多くの企業が、「良い品をより安く」という基本的な役割に加えて、消費者に感動を提供するという新たな課題に取り組みはじめている。そこでは、商品政策だけでなく、その売り方においても、商品の来歴、機能、品質といった情報を、ただ正確に分かりやすく伝えるのではなく、人々の心に触れる物語性を持たせた形に構成して発信することが重要になってきている。これは容易に対応できる課題ではないが、価格競争力では分の悪い中堅・中小規模の企業にとっては、戦略次第で大企業を凌駕できるという意味で、生き残りに向けた有力な方向性を示唆するものでもある。
