立川 進化し続ける多摩地区のコアシティ

立川は甲武鉄道(現在の中央線)の駅誕生以降、戦前の軍拡期、戦中・戦後の混乱期、高度成長期、バブル期と時代の変化を柔軟に捉えて発展を遂げてきた。現在は大型商業施設の集積地、そして鉄道の要衝として多摩地区の核と呼ぶにふさわしい存在となっている。今後も、「都市軸沿道まちづくり」の具体化が見込まれるなど、立川は進化の歩みを止めない。

戦中、戦後30年は基地の街。現在は業務核都市として多摩地区の中心に

●立川の主な出来事

立川の主な出来事

「立川市ホームページ」、「立川商工会議所の通史」より抜粋

明治22年、甲武鉄道(現在の中央線)が新宿~立川間に開通したことを契機に立川は発展の歩みを始めた。大正期に陸軍の飛行場が建設されてから、軍の施設や軍需工場が作られ、第2次大戦が終戦を迎えるまで、立川は軍都として発展した。戦時中には、空襲により発生した火災の延焼を防ぐ目的で、「建物疎開」と呼ばれた建物の取り壊しが駅周辺で行われた。それによって大きな空き地ができていたことが、駅前を基点とする北口街作りの原点となっている。

戦後、立川飛行場に進駐した米軍相手の商売が盛んになった時期もあったが、昭和30~40年代には、北口駅前に百貨店や大型のスーパーマーケットが次々と開業し、商業的な発展を遂げてゆく。

昭和52年に立川基地が日本政府に全面返還され再開発が始まる。国営昭和記念公園や立川広域防災基地はこの跡地を活用している。昭和57年には当時の国鉄の手により駅舎の改良、駅ビルの建設、駅南北自由通路の整備が実現され、多くの人が集まるターミナル駅としての機能を充実させていった。昭和61年には、広域的機能、業務・商業機能、交通結節性を生かした交流拠点として期待され、業務核都市に位置づけられた。

平成に入り、駅前地域内で再配置された髙島屋、伊勢丹が規模を拡大してオープンしたり、多摩モノレールによって新しい導線ができるなど、よりスケールの大きな開発が推し進められ、多摩地区の中心都市と呼ぶにふさわしい現在の立川が形作られた。

※国が定めた首都圏基本計画において、東京都区部への一極依存型ではなく、バランスのとれた地域構造とするために、東京都区部以外の広域連携拠点として育成・整備しようと指定された都市。同じ多摩地区では八王子、多摩市が指定されている。

大規模オフィス・大型店舗の集積地

立川市の人口は、約17万2,000人で、多摩地区全体の人口約399万3,000人の4.3%を占める。人口増加率をみると、2002年から2007年までの5年間で4.67%となっており、他を大きく上回っている。

昼夜間人口比は112.1(夜間人口を100とした場合の昼間人口比)と就業などの流入人口が常住人口を上回るが、市内に籍を置く事業所数は武蔵野市、八王子市と比べて少ない。その一方で、1事業所で働く従業員数は13.0人と多く、立川市には多くの従業員が働く大規模なオフィスや大型店舗が集中していることが確認できる。

●JR中央線沿線主要都市比較データ

JR中央線沿線主要都市比較データ

世帯数・人口:2002年、2007年住民基本台帳/年齢・世帯人員・住宅状況:2005年国勢調査/事業所・従業員数:2001年事業所企業統計/昼夜間人口比:2001年事業所企業統計、2000年国勢調査

このページのトップへ